大判例

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東京高等裁判所 昭和49年(ネ)1681号 判決

控訴人 吉田安三郎

控訴人 吉田ヒサコ

右両名訴訟代理人弁護士 上村正二

同 石葉泰久

被控訴人 小和田秀雄

被控訴人 フジスポーツ株式会社

右代表者代表取締役 田嶋幸雄

右両名訴訟代理人弁護士 岡本喜一

同 小川征也

主文

一  原判決は次のとおり変更する。

1  被控訴人らは各自控訴人らに対しそれぞれ金九一九万九、〇六四円及び内金八七二万四、〇六四円に対する昭和四七年二月二二日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  控訴人らのその余の請求を棄却する。

二  訴訟費用は第一、二審とも被控訴人らの負担とする。

三  この判決一項1は控訴人らにおいて各金三〇〇万円の担保を供するときは、仮に執行することができる。

事実

控訴人ら訴訟代理人は、「原判決を取消す。被控訴人らは各自控訴人らに対し各金九二八万六、八八四円及び内金八八一万一、八八四円及びこれに対する昭和四七年二月二二日から支払済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人らの負担とする。」との判決(但し、当審における請求の拡張及び減縮を含む。)及び金員支払部分につき仮執行の宣言を求め、被控訴人ら訴訟代理人は、「控訴人の本件控訴及び当審における拡張請求を棄却する。控訴費用は控訴人らの負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張及び証拠の関係は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

(控訴人らの主張)

1  原判決三枚目裏九行目から同四枚目表五行目までを次のとおり改める。

(2) 逸失利益 一、三四四万八、一二八円

年令 満一九才

学歴 高校卒

勤務先 被控訴会社

勤務日数 二〇日間

収入

①  昭和四五年五月一日より同年一二月末日まで基本給、残業手当を含め一日一、二九二円(一か月三〇日として三万八、七六〇円)

②  昭和四六年一月一日より同年一二月末日まで賃金センサス第一巻第一表昭和四六年全産業全男子労働者平均給与額(高卒)

きまって支給する現金給与月額 五万三、二〇〇円

年間賞与 一五万六、二〇〇円

③  昭和四七年一月一日より同年一二月末日まで賃金センサス第一巻第一表昭和四七年全産業全労働者平均給与額(高卒)

きまって支給する現金給与月額 五万四、二〇〇円

年間賞与 一八万五、三〇〇円

④  昭和四八年一月一日より同年一二月末日まで賃金センサス第一巻第一表昭和四八年全産業全労働者平均給与額(高卒)

きまって支給する現金給与額 七万五、四〇〇円

年間賞与 一八万六、九〇〇円

⑤  昭和四九年一月一日より同年一二月末日まで賃金センサス第一巻第一表昭和四九年全産業全労働者平均給与額(高卒)

きまって支給する現金給与額 九万一、六〇〇円

年間賞与 二七万二、四〇〇円

⑥  昭和五〇年一月一日より同年一二月末日まで賃金センサス第一巻第一表昭和五〇年全産業全労働者平均給与額(高卒)

きまって支給する現金給与額 一〇万一、二〇〇円

年間賞与 三四万二、五〇〇円

⑦  昭和五一年一月一日より同年一二月末日まで昭和五〇年度の全産業全労働者平均年収入に労働省労政局発表八・八パーセントのベースアップを乗じた収入

稼働年数 昭和五二年以降は四二年間

(この間のライプニッツ係数一八・〇七七一―五・〇七五六)

生活費 収入の二分の一

右事実にもとづいて訴外吉田盛斗(以下、盛斗という。)の逸失利益を計算すると、

{(38,760×1/2)×8}×0.9523+〔{53,200×12)+156,200}×1/2〕×(1.8594-0.9523)+〔{(54,200×12)+185,800}×1/2〕×(27,232-1.8594)+〔{(75,400×12)+186,900}×1/2〕×(3.5459-2.7232)+〔{(91,600×12)+272,400}×1/2〕×(4.3294-3.5459)+〔{(101,200×12)+342,500}×1/2〕×(5.0756-4.3294)+〔{(101,200×12)+342,500}×1/2〕×1.088×(18.0771-5.0756)=13,448,128(円)

となる。

したがって、盛斗が本件交通事故により喪失した逸失利益は金一、三四四万八、一二八円となる。控訴人らは盛斗の相続人として右金員を相続分にしたがって、各二分の一宛すなわち六七二万四、〇六四円を各各相続した。

2  同四枚目裏四行目から七行目までを次のとおり改める。

よって、控訴人らは各々被控訴人らに対し、金九二八万六、八八四円の損害賠償請求権を有するから、その連帯支払を求め、さらに右金員のうち弁護士費用を除いた金八八一万一、八八四円につき、事故発生の後である昭和四七年二月二二日から支払済に至るまで年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。

(被控訴人らの主張)

控訴人らの右1の主張事実は争う。

(証拠の関係)《省略》

理由

一  昭和四五年四月三〇日午前十時三〇分頃千葉県船橋市西船七丁目五番一五号先路上において被控訴人フジスポーツ株式会社(以下、被控訴会社という。)が保有し、被控訴人小和田と盛斗が乗っていた自動二輪車ホンダベンリー(船橋市ま七二五、一二五CC、以下、本件オートバイという。)が、無理な追越をしたことから、交通事故が発生し、盛斗が死亡したこと、被控訴会社が本件オートバイの運行供用者であることは、いずれも当事者間に争いがない。

二  控訴人らは、本件オートバイの事故当時の運転者は被控訴人小和田であり、同人の運転上の過失により本件事故が発生したものであると主張し、被控訴人らは、これを争い、運転者は盛斗であると主張するので、本件オートバイの事故発生当時における運転者が両者のうちの誰であるかについて検討する。

1  本件事故発生時の目撃証人らの証言等について

(一)  成立に争いのない乙第一号証(事故当日の実況見分調書)によれば、本件オートバイが接触した貨物自動車の運転者である木村正美は、事故当日実況見分した警察官に対し、事故発生の模様について、「図面(別紙検証見取図は、当審における検証図面であるが、実況見分調書添付の図面で指示した各点を記入して作成したものであるから、便宜同検証図面を用いて実況見分調書添付の図面の各点を明らかにすることとする。)の地点に達したとき、いきなり、どしんとにぶい音がし、後部に追突されたようなショックがあったので、すぐ右方を見たらオートバイが側方を右斜めになって右方に向って滑走していった。その滑走を認めたのは、の地点である。オートバイはそのまま滑走し、オートバイを運転していた人がの地点でオートバイから放り出され、ガードレールに衝突して点まではねとばされ、ガードレールの下に頭を突込むようにしてひっくり返った。もう一人の人は点でオートバイから放り出され、オートバイはで停止した。私の車はの地点で停止した。」旨指示説明したことが認められる。そして、右木村運転手は証人として、原審において、「事故を目撃した。実況見分のときは見たとおり話した。しかし、事故後、控訴人ら家族の者が訪ねてきて、本件オートバイの運転手は被控訴人小和田か、それとも盛斗のどちらかと聞かれたときには、どちらか判らないと答えた。本件オートバイのハンドルが貨物自動車にぶつかったようだった。目撃したときは、ハンドルをとられて、斜めになっていたと思う。オートバイはあっという間に倒れた。今では、運転者と同乗者の区別は判らなくなった。」旨証言し、当審において、「オートバイに乗っていた二人は、そのうち運転していた人がガードレールにぶつかり、後の同乗者が前に三メートル位飛ばされた。事故当日に警察官に調べられて述べたことは間違いないと思う。現在の記憶ははっきりしない。」旨証言している。そして、当審証人中村良一は、前記乙第一号証の実況見分調書の作成者の一人として、木村運転手から、本件事故で死亡した人すなわち盛斗が本件オートバイを運転していたと聞いたように思う旨証言する。したがって、事故発生後、本件オートバイと接触した貨物自動車の木村運転手が本件オートバイの運転者が盛斗であると認識していたことは疑いがない。

しかしながら、木村運転手の本件事故の目撃の正確性については、次のように疑問がもたれる。すなわち、(1)前顕乙第一号証によれば本件オートバイが接触したのは、木村運転手の運転していた貨物自動車の右後部側面であることが認められる。そして、右接触時のオートバイの速度は時速四〇キロないし五〇キロメートル位であったことが原審証人近藤昌幹の証言及び原審における被控訴人小和田本人の供述によって認められる。これらの事実からすれば、本件オートバイが接触してから横転するまでの時間は極めて短かく、せいぜい二、三秒ともいうべきものであったと推認されるのであり、前記のとおり事故を予測しない木村運転手が接触音を聞いて直ちに右側を見たとしても当時まだ一九才で運転経験も長くないと考えられる同人が、果して主観的判断を混入させることなく客観的に本件オートバイの接触後の走行状態や運転手、同乗者の挙動等を正確に認識しえたと認めることには躊躇せざるを得ない。(2)また、前記乙第一号証の実況見分調書の作成者である証人府馬幸三郎は、原審において、「盛斗を被疑者として実況見分調書(乙第一号証)に記載したのは、関係者からの事情聴取と事故車の後に同乗していたという被控訴人小和田の供述によったものである。先にかけつけた警察官が被控訴人小和田に尋ねたところ、同人は向うに倒れている(盛斗)のが運転者だと答え、また、追突された貨物自動車の運転者が同被控訴人の所に行って、どちらが運転していたのかと尋ねたところ、向うに倒れているのが運転者だと答えた旨証言し、当審でも同様の証言をしている。また、当審証人中村彰も、「同証人は本件事故当時前記木村運転手の貨物自動車の助手席に乗っていたが、音がしてショックを感じたので、すぐ振り返ったところ、それと同時位に人がガードレールにぶつかっていた。被控訴人小和田に『誰が運転していたんだ。』ときくと、同被控訴人は、『俺じゃない。向うだ。』といった。」と証言している。以上二名の証人の証言に照らしてみると、事故発生直後、木村運転手が被控訴人小和田から本件オートバイの運転者は盛斗であると告げられた疑を否定できないのであって、以上の二点を考え合わせると、木村証人の証言は、目撃証言として、その信憑性において疑わしいものといわざるを得ない。

(二)  次に、原審及び当審証人近藤昌幹の証言及びこれによって真正に成立したと認められる甲第三号証(同人の供述調書)には、「本件事故の発生直前、同人はニッサン軽自動車を運転して時速二〇ないし三〇キロメートルの速度で本件オートバイとすれちがった。本件事故現場に差しかかったところ、本件オートバイはセンターラインを越え、時速四〇キロないし五〇キロメートルのスピードで走行していったので事故をおこすのではないかと思って時速を四キロないし五キロメートルに減速して本件オートバイの行方をみていた。そうすると、本件オートバイの後部座席の人が相当の勢いでガードレールに飛ばされるのを見た。」との証言及び供述記載がみられ、原審証人府馬幸三郎は右近藤証人の証言する速度で前記軽自動車を走行させた結果、後方を識別できる状態であった旨証言する。しかし、当審における現場検証の結果によれば、同軽自動車の運転席に座って近藤証人の指示する位置関係で後部の窓あるいは運転席右側の窓から瞬時ともいうべき短時間に発生した本件オートバイ事故の模様を詳さに凝視して観察することにはかなりの困難を伴うことが認められるから、本件オートバイの同乗者がガードレールに飛ばされた(ガードレールに飛ばされた者が盛斗であることは後記認定のとおりである。)との前記近藤証人の証言及び供述記載ならびに右観察が可能であるとする前記府馬証言も疑問の余地がないとはいえない。

2  本件事故発生前後の証人らの証言について

(一)  原審証人吉田健治は、「事故当日の事故発生前被控訴人小和田と盛斗が本件オートバイに乗って被控訴会社の本部を出ていくところを見た。当時本件オートバイを運転していたのは盛斗で、被控訴人小和田は後部に乗っていた。」と証言する。しかしながら、同証言は、これと符合する被控訴人小和田本人の後記供述に多大の疑義がもたれること後記のとおりである点に鑑み、同証言もたやすく措信できない。

(二)  次に、当審証人川野辺豊は、「同人は、本件事故発生後、事故の発生した道路を横切って、篠原水道工務店に行き電話で救急車の手配をした。電話をしていた時に倒れていた人が起きてきて私の斜め後脇にいました。私が電話をかけた後、続いてその人が電話をかけた。その人は、すぐダイヤルを廻し『やっちゃった。』と電話で話していましたから、勤め先の会社にでも電話をかけたのだろうと思います。」「その間に私は店を出たから、話が終るまでその人の話を聞いていない。その人の電話の話で記憶にあるのは、自分の名前をいったことと、『やっちゃった。』ということだけです。」と証言している。しかし、右証言は、本件事故後五年有余後になされたものであるうえ、同証人が被控訴人小和田の電話の内容について殆んど記憶がないのに『やっちゃった。』という言葉のみを鮮明に記憶しているというのもいささか不自然の感を免れず、また、『やっちゃった。』という言葉の意味も必ずしも明確なものとはいえないから、右証言をもって被控訴人小和田が本件オートバイの運転者であることの証左とすることはできない。

2  被控訴人小和田本人の供述について

被控訴人小和田が盛斗と本件オートバイに同乗したことは、前記のとおりであって、同被控訴人こそ、本件オートバイの運転者が誰であったかを知悉している者である。そこで、以下、同被控訴人の原審及び当審における供述について検討を加えてみる。

(一)  被控訴会社本部出発前の情況について

同被控訴人本人は原審及び当審において、大要次のように供述する。

「事故当日の昭和四五年四月三〇日は国鉄と私鉄のストライキで、同被控訴人と部下の鈴木義正は被控訴会社の本町支店で待ち合わせ、同被控訴人が前日本部から借りてきた乗用自動車に右鈴木を乗せて被控訴会社高砂支店に行くつもりで自宅を出発したところ、交通渋滞が著しいので、急拠方針を変更し、被控訴会社の本部に寄り、同会社保有の本件オートバイに乗り換えて高砂店まで行くことにした。ところが、同オートバイを始動させてみると、エンジンが不調なので、同本部にいた吉田健治と盛斗に頼んで近所の整備工場で修理をしてもらったところ、約一五分かかった。本件オートバイの修理ができたので、同被控訴人はこれに乗って方向転換をしようとしたところ、これを倒してしまった。盛斗がこの模様をみて助け起してくれ、危いから同人が乗せていくという。しかし、同被控訴人は幼少の頃自転車の後部に乗せてもらって落されたことがあるので二輪車の場合、後部に乗ると恐怖感があり三度ばかり断った。しかし盛斗が本件オートバイを起して、どうしても乗れというので、同被控訴人はしぶしぶ乗った。」

しかし、右供述には、次のような疑問がもたれるのである。すなわち、同被控訴人本人の供述によれば、同被控訴人は昭和三七年四月から被控訴会社に入社し、その高砂店の店長をしていたのであり、年令も事故当時すでに三五才であったこと、また、同被控訴人は盛斗と二、三回会い高砂店の開店のときに手伝いにきてもらった程度の面識があるにすぎないことが認められる。これに対し、盛斗は被控訴会社に入社したのが本件事故の二〇日前であること後記のとおりであり、しかも事故当時盛斗が満一九才の未成年者であったことは《証拠省略》によって認められるのである。そうだとすれば、両者はいわばベテラン社員と高校出の新入社員という関係にあったというべきである。したがって、このような両者の関係からみれば、被控訴人小和田が本件オートバイの後部に乗ることの不安を恐れて三度も断っているのに、盛斗が無理に乗るよう勧めて本件オートバイに乗せたという同被控訴人の前記供述には多大の疑義がもたれるのである。

(二)  被控訴会社から高砂店への道順について

被控訴人小和田は、原審において、「盛斗は被控訴会社本店を出てすぐ左折し京葉精機という所を左折して行きY字路で太い道にぶつかり、これを真直ぐ東京方面に向った。中山競馬場の前のところから直進して木下街道に抜ける道があるのに、盛斗は直進せずに混んだ道を左折した。そのときはおかしいと思ったが、彼の家に寄って行くのかと思った。」(原審記録一五九丁表裏)「同被控訴人が高砂店へ行く時通る道と違う道を走ったので盛斗にどこに行くかときいたが、同人は返事をしない。盛斗の家が競馬場のところから左折して行った中山町一丁目にあるので家に寄っていくのかと思った。」(以上、当審)と供述する。

しかしながら、同被控訴人が高砂店へ急いで向うために、わざわざ単車に乗りかえたこと前記のとおりであるから、同被控訴人の意向を無視して盛斗が遠廻りの道を選んだとか、また自宅へ寄るため道順を変更するなどということは考え難く、仮に盛斗がそのような所為にでたとすれば、同被控訴人と盛斗との前記被控訴会社における地位からみても、また年令差からみても、同被控訴人が盛斗に自己の指示に従って運転させたであろうと考えるのが自然である。この点に関する同被控訴人の供述はにわかに措信できない。

(三)  本件オートバイの走行情況について

被控訴人小和田本人は、盛斗の本件オートバイの運転について、「感じで五〇キロ以上出ていたと思う。」「運転は荒っぽかった。飛ばしていたのでスピードを押さえろといった記憶がある。」(以上、原審)「盛斗は中山競馬場の前の道などでは六〇キロ位の速度を出し、センターライン上あるいは対向車線にいくらか入るときもあった。」「盛斗の運転は、スピードも速やすぎ、左側通行でもなかった。同被控訴人は何回も、もっと左に寄れとか、すでに鈴木が行っているのだからあわてて行く必要はないと言った。それに対して、盛斗は大丈夫だというだけで聞かなかった。」(以上、当審)と供述する。しかしながら、同被控訴人は、自転車の後に乗って振り落された経験があるというのであり、本件オートバイの後部座席に乗ることについて恐怖心を抱いていたこと前記のとおりであるから、盛斗が無謀な運転をすれば当然これを制止させるであろう。また、盛斗が友人などを後部座席に乗せて遊びに出かけるという場合であれば別として、本件では入社二〇日たらずでしかも一九才の新入社員が三五才にもなっているベテランの先輩社員を後部座席にのせて運転する場合、同被控訴人の供述するような無謀運転をするなどということは考え難いところである。この点に関する同被控訴人の供述も、疑義が多いというべきである。

(四)  本件事故発生直後の同被控訴人の言動について

同被控訴人は、原審において、「接触したトラックの助手台に乗っていた人が降りてきて、『何をやってんだ。お前が運転していたのか。』といってきた。すると、運転手がおりてきて、『この男はちがう。この男は後に乗っていたやつだ』ということをいった。そのうち、二、三人車からおりてきて、はやく電話しろというので、前の水道屋から最初一一〇番に電話し、それから一一九番に電話をし、その後被控訴会社に電話した。被控訴会社では女子社員が電話にでたので盛斗が事故を起したことを伝えた。」(以上、原審)と供述しているが、当審では、電話をして事故現場に戻った後に、接触したトラックの運転手及び同乗者との前記会話があった旨供述を変更している。しかしながら、当審証人中村彰は、「同被控訴人が電話をかけて戻ってきた後に『誰がオートバイを運転していたか。』ときいたところ、同被控訴人は『俺じゃない。向うだ。』といっていた。その時、接触したトラックを運転していた木村が『この人じゃない。』といったのではなく、同被控訴人が『俺じゃない。』といったのである。」と証言しているのであって、同被控訴人の前記供述中、同証人の証言に反する部分はにわかに措信することができない。また、同被控訴人が本件事故発生後に本件オートバイの運転者が自分でないと発言したこと前記のとおりであるが、これは同被控訴人が被控訴会社に電話をした後になしたものであるうえ、本件のような大事故を起した人間が自己の責任を免れようとして自己に有利な供述をすることは往々あり得ることであるから、同被控訴人本人の前記供述をたやすく措信することはできない。

(五)  同被控訴人のその後の言動について

同被控訴人本人は、原審において、「初七日にあなたは奥さんと一緒に吉田さんの家に来ようとしたが、東中山駅で帰ってしまったことがあるか」との問に対して、「あると思います。そのときの私の心境は、このような事故にあって親御さんの顔を見るのはかわいそうだと思ったのです。」と供述し、また、「あなたは盛斗が死んだことについて義父に盛斗は自分が殺したようなもんだと話したことがありますか」という問に対して「当時は人一人死んだということでたとえ自分がやらなくても死んだということで申訳なく思っていましたから……殺したとまではいわなかったと思います。」と供述している。同被控訴人の右供述は、同被控訴人が本件オートバイの運転者でなく同乗者であったとしても理解しえない言動ではないが、原審証人吉田和久が「事故後一週間位して同被控訴人を見舞いにいったとき、同被控訴人の義父の話をきいたところ、同被控訴人はおれが殺したんだといっていたとか、事故のことについては同被控訴人が話したがらないんだといっていた。」と証言していること及び同被控訴人の供述について前記(一)ないし(三)のような疑点がみられることを考え合わせると、同被控訴人の前記供述にみられる言動に不審の念を拭払することができないものといわざるを得ない。

4  以上、検討したところによれば、本件においては、本件オートバイの運転者が誰であるかという点に関する証言、供述等にはそれぞれに疑義があっていずれもそれほど信用性が高いものとはいえないというべきであって、右証言、供述のみによっては、事故当時における本件オートバイの運転者が被控訴人小和田と盛斗のいずれであったかを断定することはできないといわなければならない。

5  そこで、本件事故後の道路上等に残された痕跡、盛斗及び同被控訴人の負傷の部位、程度等についてなされた実況見分、検証及び死体検案等のいわゆる客観的証拠とこれに関連してなされた証言、鑑定等に基づいて検討することとする。

(一)  事故発生時の道路状況等について

《証拠省略》を綜合すれば、本件事故現場は中山競馬場を南北に走る通称中山競馬場前通りで、国鉄総武線西船橋駅の北方約九〇〇メートルの地点であること、本件現場の道路は車道幅員約七メートル、歩道幅員は東側約二メートル、西側約一・六メートルであること、歩道はガードレールによって区分されていること、右道路の最高速度は千葉県公安委員会の指定により時速四〇キロメートルに規制されていたこと、本件事故発生後、右道路には、別紙検証見取図記載のとおり、本件オートバイが前記貨物自動車に接触したと認められる点から南西に五・二メートルの地点から本件オートバイが停止した点まで約二〇メートルの部分に滑走痕(あるいは擦過痕)が鮮明に印象されていたこと、右滑走痕はスリップ痕ではなく、右点から点まで約一三・八メートルの間に印象された痕跡は、本件オートバイが転倒する前にそのタイヤやステップ等が道路と接して付着したと認められる擦過痕であり、猫がひっかいたような跡がみられ、また、点から点までに印象されたものは本件オートバイが転倒してしまった後に車体が路面と接触したと認められる擦過跡であること、さらに点から一三・四メートル斜め先の点のガードレールの上部の凸部には盛斗が激突したとき付着したと認められる眉毛約六本が付着していたこと、そして、点から四メートル先の点のガードレールの下に、盛斗は歩道上に頭を北に足を南にして倒れていたこと、他方、被控訴人小和田は点附近(からの距離二一・五メートル)に倒れたことが認められ(る。)《証拠判断省略》

(二)  事故発生直後における本件オートバイ及びこれと接触した貨物自動車の車輛の状況について

《証拠省略》を綜合すれば、本件オートバイは、ホンダC九二自動二輪車(一二五cc)で、事故後、左右ステップ、右ブレーキペダル、助手席の右ステップ、右バックミラーがいずれも後方に曲っていたこと、また、本件オートバイと接触した車はトヨタハイラックス四三年自家用普通貨物自動車で、右後輪のタイヤに固い鉄棒ですったような接触痕が鮮明に印象されており、かつ右側のリヤーフェンダーに足ですったような接触痕が認められたこと、右両車の車輛の傷のつき具合から実況見分をした警察官は本件オートバイの左ステップが貨物自動車の右後輪のタイヤに接触したものと推定したことが認められる。

(三)  盛斗及び被控訴人小和田の負傷の部位、程度について

《証拠省略》を綜合すれば、盛斗は前記事故により即死したが、その直接の死因は、頭部打撲裂創、頭蓋骨々折による頭蓋腔内出血であること、そのほか、同人は左鎖骨外端骨折、左上腕骨中央開放性複雑骨折、右前頭部に長さ四センチメートルの擦過傷、左膝前面左側関節内側、左膝関節前面、下腿前面各擦過傷を負っていること、なお、着用のズボンの左膝に破損箇所があることが認められる(なお、当審証人川野辺は「盛斗の着衣の左膝の部分に貨物自動車の赤茶色の塗料が付着していたのを見た。」と証言している。)。これに対し、被控訴人小和田の負傷については、診断書等の的確な証拠の提出はないが、同被控訴人本人の原審における供述によれば、本件オートバイから放り出されて頭部、頬、手両側等にいわゆる全身擦過傷を負い、また、一瞬気を失ったが、すぐ回復し、入院を一週間ほどしたが、盛斗の初七日には妻とともに外出して控訴人宅を訪問しようとしたことが認められるから、その負傷の程度は比較的軽微であったものと推認される(同被控訴人本人の当審における供述中右認定に抵触する部分は措信できない。)。

(四)  以上(一)ないし(三)で大略認定した本件事故発生後の道路上の痕跡、車輛の傷、盛斗及び被控訴人小和田の各負傷の部位、程度等を綜合して、本件オートバイの運転者が盛斗であるか、それとも被控訴人小和田であるかを推定することができるかどうかについて検討してみる。

(1) 当裁判所は、本件事故が単車と貨物自動車との接触によって発生した事故であり、しかも事故発生後長い歳月を経過しているので、本件オートバイの運転者が盛斗であったか、それとも被控訴人小和田であったかの点の解明について、鑑定を採用し、かつ鑑定人に対する尋問を行って真実の発見に努めたが、医師井上剛の鑑定書及び同人の当審における証言が、前記(一)ないし(三)で認定した事実を説明するのに納得のいく点が多いと考えられるので、まず、同鑑定書の記載の一部を要約、摘記して、本件オートバイの運転者がいずれであるかの点について考察してみる。同鑑定書は次のように説明する。

盛斗の死体にみられる多数の外傷性異常のうち、受傷状況の吟味上特に重要な意義をもっているのは前頭部前面の右側すなわち前額部の右側にある大きな表皮剥脱巣である(乙第一号証の実況見分調書で指摘されている前額部の長さ四センチの擦過傷)。というのは、本件事故現場のガードレールには眉毛が付着している部分があることが、実況見分調書に記載され、写真も撮られているが、眉毛が付着する可能性のある外傷は、この傷だけであるからである。こうしたところからみると、盛斗は額の右側をガードレールの上縁の隆起部に接触させ、すべるように頭が動いて行きその部分すなわち前額部に大きな表皮剥脱を形成するに至ったものと認めなければならない。ここで、現場のガードレールがどんな規格構造のものであるかが問題となってくるが、それは実況見分調書添付3及び5の写真に基づき独自の調査を遂げたところ、右ガードレールは路側用ガードレールの規格Cのものであることが判明した。そうすると、盛斗の額の右側が接触した部分すなわち眉毛が付着していた箇所は地上から少くとも六〇ないし六五センチ位の高さであったと考えられる。

こうした参考事項をも綜合考察すると、盛斗の身体は、頭を前進部位としてガードレールの上縁部に向い、空中を飛来して来た筈であって、その飛来の方向は、ガードレールに対しかなり斜めであり、額の右側だけがガードレールの上縁の隆起部をすべるような格好で接触(衝突)したことになると考えられる。

こうした機序が起るためには、オートバイに二人乗りしていたという盛斗の身体は、オートバイから離れ(飛び出し)、空中をおそらく抛物線を描いた格好となり、前向きに飛び頭部を前進部位として(いわゆる頭から)ガードレールに飛び付いた筈であると考えられることになるが、その際、盛斗の身体はガードレールに対して、かなり斜めとなった方向になっていたため、前頭部前面(額)の右側だけが擦過するようにあたってしまったものと認められる。

なお、実況見分調書などの現場の状況(位置関係)を調べてみると、盛斗がオートバイから飛び上るように抛り出されたのは、オートバイが貨物自動車に突きあたった(接触した)瞬間またはその一瞬直後であるといわなければならない。

以上のように盛斗の前額部にみられる外傷性異常は、医学的にみれば意義の乏しい表皮剥脱ではあるが、盛斗の受傷機序の究明に関しては、甚だ大きな意義のあるものであると判明した。

ところで、ガードレールに向って飛んで行った盛斗の身体は、もともと落下しながら衝突したものである上に重力の作用を受けるので、少くともその下肢の部分は間もなく地面に落ち、膝などを強打している筈である。左右下肢の膝部などにみられる表皮剥脱の一部及びズボンの右側膝部分の破損などは、このときに惹起されたものと考えてよいであろう。

ついで、顔面の右側下方位にある帯状の表皮剥脱と頸部の右側にみられる幅広い帯状の表皮剥脱について、その発生機序を吟味してみると、これらの表皮剥脱巣は、その存在部位、形状および方向などからみて、その部位がガードレールの波形ビーム(板)の下方位の隆起部に接触しすべって行ったために形成されたものと認められる。この部位への接触は、上方位の隆起縁へ額がつき当った時期からみれば、明かに瞬間遅れており(これは、下方位の隆起縁の接触痕が多少遠い方すなわち競馬場側へズレているところからも裏付けられる。)、この時期においては、地面に落ちた下肢は、手前の方すなわち時計の針と逆の方向へ緩やかに回転しながら、ガードレールの下を潜り抜け(地上との間には約三〇センチメートルの距離がある筈である)、歩道側へ飛び出して行きつつあったのである。なお、下肢が歩道側へ回りながら飛び出して行くと、胴体(躯幹)もこれについてガードレールの下を潜り抜け、その身体は徐々に回転して上向き(仰臥位)になって行く筈である。次の瞬間においては、盛斗の身体は、ガードレールの波形ビームの下縁部に頸の右側が引掛った形となり、胴体以下はガードレールの外側に出てしまい、恰もガードレールで首吊りをしているような格好になった筈である。頸部の右側の表皮剥脱が特に顕著で幅広く深いものではないかとみられる状態になっているのは、下顎骨の下縁の骨のかたまりのために、首のビームへの引掛りが仲々放れなかったことを推知させる。

ところが、ガードレールの外側(歩道側)へ出てしまっている胴体以下の引っ張る力が大きいのと、重力の作用との相乗作用によって、やがてこの首の引掛りはガードレールから外れてしまったので、その瞬間に盛斗の頭部は仰向きの状態となり、地面へ激しく叩き付けられ、その後頭部には、高度な骨の破壊すなわち頭蓋骨折が生じたものと認められる。

次に、盛斗の左側上肢の上腕にみられる開放性骨折を伴う創傷について、その受傷機序を説明すると、この創傷は後頭部を路面に強打した盛斗の身体がすべって行き、直ぐ近くにあったガードレールの支柱に上腕部を激しく衝突させたために形成されたものであると認められる。また、左鎖骨々折も、このとき同時に形成されたと認められる。その支柱は、乙第一号証の実況見分調書添付の写真5において警察官が指示しているものであって、この支柱への衝突により、盛斗の身体は完全にガードレールの外すなわち歩道へ押しやられるとともに、再び、時計の針と逆行する方向転換する外力を受けたものと考えなければならない。このように、盛斗の身体は、ガードレールに飛びついてから、その位置、方向、向きを大きく変え回転するような格好となり、歩道側へ投げ出されているので、本件事故現場の歩道上に頭を北に足を南にして倒れていたことは不思議ではなく、当然あり得ることであるといわなければならない。

次に、盛斗は、被控訴人小和田と二人乗りをしていたのであるから、どちらが運転席に座りどちらが後席に乗っていたかとの問題が起るが、この問題は、両座席の安定度如何を科学的に吟味検討することによっても、ほぼはっきり出来る問題であるし、従来の事故例の調査および経験によっても、明確な答の出ることがらである。そこで、まず最初に、両座席の安定度如何を吟味検討して行くが、それには、三つの事項について大きな差がある。その一つは、運転席の者は、いつもハンドルに手をかけ握っているので、絶えず自分自身の身体(車と共に動いている)にブレーキをかけている状態におかされていることになり、その人の身体は常に安定しているが、後席の者には、そうしたブレーキ様作用はないので、この点からみて、後席は非常に不安定であるということである。その二は、握りすなわち、つかまっている場所の違いであって、運転席の者は、しっかりと握れるハンドルを握っているが、後席の者は、細く握り難いところの握り金具か荷台を掴まえる他はないので、握りの点からみても後者はすこぶる不安定であるということである。その三は、運転者は、絶えず前方およびすぐ前を見ていて視界も広く、ハンドル操作によって生ずる揺れや方向転換、車の傾斜などの急激な変化にもよく順応出来ると同時に身構えも出来るが、後席の者には、こうしたところに大きな制限があるため、運転席の者に較べて遥かに不安定であるということである。従って、少くとも理屈の上では、後席の者は、運転席の者に較べて遥かに不安定であるので、本件事故のような事故に遭遇すれば、後席の者はまっ先に車から抛り出されることになると考えられる。

以上を綜合勘案すると、本件事故において、オートバイから飛び出しガードレールに衝突して死亡した盛斗は、明かに後席に乗っていた筈であり、被控訴人小和田は運転していた筈であるといわなければならない。

本件事故の場合、オートバイは事故発生後路面に多数の「滑走痕」を残しつつ斜走し、遂には倒れ停止している。その間にオートバイの速度は急激に減退している筈であり、しかも、最後にはオートバイ自身の重力の関係から後車輪が前方に回転する形となり停止する筈であって、運転席にいた者は、このときにオートバイから抜け出るような格好となり、投げ出されることになるのが普通である。したがって、運転席にいた被控訴人小和田が頭部、頬、手などに入院五日間程度の軽傷を受けるだけで済んだのは、当然のことであって、盛斗が後席にいたという判断には全く矛盾しない。なお、盛斗はオートバイが貨物自動車に接触した瞬間またはその一瞬後に車から飛び出るように投げ出されたが、その際貨物自動車に接触した部位は、タイヤ側面の深いキズ跡のある部分であって、オートバイ側は左ステップの端であろうと考えるのが妥当である。盛斗がオートバイの後席から飛び出した際には、オートバイの側面などに異常な接触が起るため、その下肢の内側位には表皮剥脱などの外傷が起り易く、同人の下肢には、内側大腿部および右側下腿の内果部などに、さきの受傷状況の説明では論じなかった表皮剥脱があるが、これらの表皮剥脱は、そのときに形成されたものではないかと考えてよさそうである。なお、貨物自動車の右側のリヤーフェンダー下部には、異様な擦過痕があるが、これは、その位置や形状からみて、盛斗の左足が接触したためのものと考えてよさそうであるが、この擦過は、同人の下肢には格別の損傷を与えなかったもののようである。

以上のように叙述したうえ、盛斗が本件オートバイの後席に乗っていた筈であり、被控訴人小和田は運転席にいたものと認められるというのである。

さらに、右井上医師は当審証人として、別紙検証見取図点ないし点付近の道路上の痕跡について、「これはスリップ痕ではなく、推定ではあるが、横すべり痕とみられる。そして、このような滑走痕はハンドルが握られている状態でなければつかないものである。そして、本件では、最後まで行って怪我の少なかったのは被控訴人小和田であるから、その点からみても、本件オートバイの運転者は同被控訴人と推定される。」と証言する(なお、この点については、当審鑑定人樋口健治の鑑定結果中でも、「運転者盛斗がはじめに本件オートバイから離れて前記図面の地点に転落し、身体の保持が困難な同乗者の被控訴人小和田がおくれて同地点に転落するということは極めて不自然である。」「同乗者盛斗がまず転落し、甲地点で倒れ、その後しばらくして地点で同被控訴人がゆっくり転落したとするのが自然である。」と同様の所見を述べている。)。

(2) これに対し、右樋口鑑定人の鑑定の結果(鑑定人尋問を含む。)中には前記井上医師の所見と一部符合する部分もあり、また本件オートバイの事故後の走行状況に関する力学的所見について一部肯綮に値する点がみられるものの本件オートバイと貨物自動車の接触の態様について、同鑑定人が最も重要な仮説として立てた「後部同乗者の上下休左半部と貨物自動車の荷台右後部右端及び積荷との激突があった。」との推定部分につき首肯するに足りる説明がなく(もとより、そのような痕跡は証拠上認められない。)、また、もし後部同乗者の左半部が貨物自動車と激突するような事態が生じたとすれば、オートバイの同乗者は直ちにその場に落下したと推測されるのであって、右仮説につき多大の疑義がある。さらに、同鑑定の結果には他にも臆測と考えられる点が少なからずみられる。

次に、当審鑑定人渡邊日章の鑑定の結果(同人の鑑定人尋問の結果を含む。)についてみると、同鑑定人は、本件事故につき、「加害車(本件オートバイ)がセンターラインを越えて約五〇センチメートル対向車線側に進入して進行中に、対向車がセンターラインぎりぎりの距離でかなりのスピードで進行してきた。加害車は急いで左に約二五度ハンドルを切り、対向車も左にハンドルを切ったために一応正面衝突は回避された。加害車は、被害者(貨物自動車)の後方にせまり、後部に割り込もうとしたが、人が歩く程度の速度で進行し、後続車との間隔も五〇センチメートルないし一メートルしかないので、右に約三〇度ハンドルを切った。これは対向車とほぼ平行に進行し、センターラインを越えないで進めると判断されたためと思われる。ところが、予想に反して、加害車はそのまま進行すると左ハンドルが被害車右後部に接触ないし衝突する危険が寸前にせまっていることが明らかとなり、これを回避するために右に一杯にハンドルを切った。ところがこの種のオートバイは左・右に約四〇度(進行方向に対して)までしかハンドルが切れないので、被害車の右後部角の上方に加害車の左のクラッチレバーの左端より右に約一五センチメートルの柄の部分が接触または衝突し、左クラッチレバーは左外下方に押し曲げられると共に、前輪は反対の左側に戻され車体は約一四度前後左傾した。加害車乗員は慣性で前方に押しだされ、乗員の左膝は、左側関節内側が被害車の右後部角に、同じく左膝関節上部やゝ右内側は加害車の左エンブレムを含むガソリンタンクの左側下部の部分との間に強く挾まれたか、または二次衝突によって激突したために、左膝関節上部やゝ右内側に左エンブレムによるほぼ円形の二次損傷ができた。それと同時位に、加害車の乗員は、ハンドルを握ったまま慣性作用で左前方へ上半身が浮上り、被害車の右後部角上方の鉄枠の角に左上腕を打ちつけ、おそらく左側頭部も受傷したと思われる。つぎの瞬間に、車体は反作用のため右に転倒しそうになりながら被害車の右側の直ぐそばを約一・三メートル進行し、被害車右後輪に加害車左前ステップが衝突したため、加害車は進行方向右斜前方に跳ねとばされたと推定される。その間に、加害車の乗員の右足が前ステップの上からはずれたために、自車の右前ステップ尖端で加害車乗員の右内果(うちくるぶし)に衝突創ができたと推測される。」との仮説を立て、右仮説に基づいて、同鑑定人は本件オートバイと同型同種の実験車を用い次のような実験をした。すなわち、同実験車の左エンブレムに印刷用インクを塗布し、被実験者として成人男子を運転席に成人女子を荷台に乗せて、左手は荷台アーム左端を、右手は荷台右後部角の鉄枠につかまらせ、後から人力で押し、模擬被害車の後部角に、オートバイの左クラッチレバーの基に近い柄の方が衝突するように、仮説通りの方向から進行させる実験を繰り返したが、丁度、左クラッチレバーの柄の部分が模擬被害車の後部角上方に接触しオートバイは左にやゝ傾斜し、ハンドルと前車輪が左に曲った状態で、模擬被害車の右後部角下方と運転者の左膝左側内側が接触すると同時に、オートバイの左エンブレムが運転者の左膝関節上部やゝ右内側に当たって、両方から挾むような形となった。左膝を離して、運転者の二次衝突部位のインクのついた部位を写真に撮り、屈位と伸長位で計測と記録写真を撮った。左膝関節上部やや右内側には屈位で長径五・三センチメートル、横径五・四センチメートルのやや情円形の輪状のインク像が印象され、伸長位では、上縁が切れているので三・七センチメートル以上、横径で四・五センチメートルの像になった。かくして、同鑑定人は右実験により、右の仮説が一応証明され、加害車との二次衝突による二次損傷が立証されたと鑑定する。そして、盛斗の死体写真にみられる左膝関節部のほぼ円形の傷が右実験により印象されたインク像とほぼ符合することが推定され、また、盛斗の左腕の損傷も同様の実験により第一次衝突直後の一次損傷により実験的に確認されたという。さらに、盛斗の右内果直上のほぼ円形の傷も、同実験及びこれに関する文献等を斟案すると、前記仮説による第一次衝突による衝撃の反作用として加害車が右側に転倒しそうな際に、加害車の運転者の右足がステップから離れたために、右内果と右ステップ尖端の二次衝突による損傷(いわゆる衝突創)と推測され、荷台の同乗者の補助ステップは、本件オートバイの場合前ステップより一〇センチも高いので、荷台同乗者の右内果上部の損傷の可能性はなかったと推測されるとする。

そして、同鑑定人は、両下肢内側に加害車との二次衝突(打撲傷で、おそらく表皮剥脱ならびに皮下出血を伴っていると推測される。)による二次損傷部位を有し、実験的にも推定ないし推測可能な傷を有するのは、盛斗であり、その成傷器は左エンブレムならびに右前ステップ尖端と推定ないし推測されるから、九〇パーセント以上の信頼度で、本件加害車の運転者は盛斗であったと推定されると鑑定する。

しかしながら、右鑑定において、仮説として立てられている本件オートバイの左クラッチレバーと接触ないし衝突したとされる貨物自動車の後部荷台の後部右端上方の鉢巻状部分及びその上部にみられる凹損らしき痕跡(乙第一号証の実況見分調書添付11の写真)が本件事故によって生じたものであるとの証拠はないのであるから、右写真の痕跡をもって、本件事故により生じたものであることを前提として立てた前記仮説には疑義がある。また、同鑑定人は右実況見分調書添付7ないし9の写真を同型車のそれと比較検討したうえ、本件オートバイの左クラッチレバーの柄はその尖端とともに左斜下方に強く押し曲げられており、また、ガソリンタンク左側及び左エンブレムの部分が陥凹していると指摘している。なるほど右指摘のような跡が右写真から一応推測されないではないが、右のような損傷が仮に本件オートバイにあったとしても、それが本件事故によって生じたものであることを証するに足りる証拠はなにもないのである。

また、同鑑定は、盛斗の左膝関節部にみられる円形の傷は、仮説に基づく衝突実験の結果、実験車の左エンブレムに塗布したインク像が被実験運転者の同じ箇所に印象されることが確認されたから、本件オートバイの運転者の左膝は、左側関節内側が被害車の右後部角に、同じく膝関節上部やや右内側は加害車の左エンブレムを含むガソリンタンクの左側下部の部分との間に強く挾まれたか、または、二次衝突によって激突したために左側膝関節上部やや右内側に左エンブレムによるほぼ円形の二次損傷ができたとの仮説は一応証明されたという。しかし、同鑑定書添付の写真20(実験写真)と乙第一号証の実況見分調書添付の14及び16の写真(盛斗の足の負傷部位の写真)とを比較すると、実験写真における左膝に印象されたインク像の位置は被実験者の左膝関節のやや上部の内側に円形のインク像が印されているのに盛斗の足の実物写真では、円形の傷は左の関節のほぼ上部に位置し、両者の位置が異ることが明らかであるから、右仮説が実験の結果証明されたとは認め難い。また、渡邊鑑定人の鑑定では、盛斗の頭部における負傷の機序に関する説明がなされていない。

(8) 以上検討したところによれば、本件オートバイの運転者が被控訴人小和田であるとの前記井上医師作成の鑑定書の記載及び同人の証言は他の二つの鑑定に比べて、前記認定の事故後における客観的諸事実の相互の関係を綜合的に把握し、比較的無理な推論をせずに結論を導いたものとして、経験則に違背するところがないものと認められるのであって、当裁判所は井上医師の採った前記所見を正当であると判断する。

三  してみれば、本件オートバイの運転者は被控訴人小和田であるというべきであり、同人の運転により盛斗が死亡したこととなる。そして、右運転が無謀なものであり、これによって控訴人らの主張する態様によって本件事故が発生したものであることは、本件オートバイの事故前の運転状況に関する同被控訴人本人の前記供述(但し、運転者に関する部分を除く。)によって、明らかであるから、被控訴人は本件事故の発生につき不法行為の責任を免れない。また、被控訴会社が本件オートバイの運行供用者であることは前記のとおりであるから、被控訴人らは、各自盛斗の相続人である控訴人ら(控訴人らが相続人であることは《証拠省略》によって認められる。)に対し、損害賠償の義務を負うべきである。

四  そこで進んで損害賠償額について判断する。

1  葬儀費用について

控訴人らは盛斗の死亡によって一七万五、〇〇〇円の葬儀費用を出捐したと主張するが、これを証するに足りる証拠はなく、却って、《証拠省略》によれば、盛斗の葬儀費用は被控訴会社において葬儀屋に支払済であることが窺われるから、右主張は採用することができない。

2  逸失利益について

《証拠省略》を綜合すれば、盛斗は昭和二六年二月二日生れの男子で、高校卒業後、昭和四五年四月一〇日に被控訴会社に入社し、事故当時一九才、健康であって、事故当日まで二〇日稼働し、その間基本給、残業手当を含めて二万五、八五九円(一日平均一、二九二円)の賃金を得ていたことが認められるから、本件事故がなければ、少なくとも六七才までの四八年間は労働することが可能であったと推認するのが相当である。

ところで、盛斗は右給与額に照らせば、同人は事故の翌日である昭和四五年五月一日から同年一二月末日までは月収三万八、七六〇円(日収一、二九二円の三〇日分)を得ることができたと推認するのが相当であり、昭和四六年一月一日以降は高校卒雇用労働者の平均給与額支給に相当する財産上の収益を挙げることができたものと推認するのが相当である。そうすると、昭和四五年五月一日から同年一二月末日までは被控訴会社における事故当日までの平均賃金一日一、二九二円の収入を基準にして、一か月三万八、七六〇円の割合で計算するのが相当であり、昭和四六年一月一日以降の収入は労働省労働統計調査部の賃金構造統計基本統計調査による高校卒の男子労働者全産業平均の給与額によるのが相当である。そして、右統計調査によれば、昭和四六年一月一日から昭和五〇年一二月末日までの給与額はいずれも控訴人ら主張の数額が、昭和五一年一月一日から同年一二月末日までは、控訴人ら主張の数額を超える給与額がそれぞれ認められるから、昭和四六年一月一日から昭和五一年一二月末日までは控訴人ら主張の数額により、昭和五二年一月一日以降盛斗が六七才に達するまでの稼働可能期間については、控訴人ら主張の昭和五一年の給与額を基本として盛斗の得べかりし収入額と認めるのが相当である。そして、右収入額のうち生活費として五割を要するとみるのが相当であるから、これを控除した金額を基礎としてライプニッツ式計算により年五分の中間利息を控除して前記稼働期間中の逸失利益を計算すると、盛斗の死亡時における得べかりし利益の現価は、控訴人ら主張の計算式によって算出されたとおり、総額金一、三四四万八、一二八円となる。そして、右逸失利益は、控訴人らがその相続分として各二分の一宛の割合で相続したから、各自の取得分は六七二万四、〇六四円になる。

3  慰藉料について

盛斗が本件事故によって死亡したことにより、控訴人らが父母として多大の精神的苦痛を受けたことは明らかであるから、その慰藉料は各々二〇〇万円とするのが相当である。

4  弁護士費用について

本件訴訟の経過、本件損害認容額その他本件にあらわれた一切の事情を勘案すれば、控訴人ら主張の金九五万円、各自につき金四七万五、〇〇〇円の弁護士費用は本件事故と因果関係のある損害と認めるのが相当である。

五  以上述べたところによれば、被控訴人らは各自控訴人らに対し、それぞれ金九一九万九、〇六四円及び弁護士費用四七万五、〇〇〇円を控除した内金八七二万四、〇六四円に対する事故発生の後である昭和四七年二月二二日から支払済に至るまで民法所定年五分の割合による遅延損害金を支払う義務があるというべきである。

六  しからば、控訴人らの本訴請求は、被控訴人らに対し、前項所定の金員の支払を求める限度において正当として認容すべきであるが、その余の部分は失当として棄却すべきである。

よって、原判決を右の趣旨に従って変更することとし、訴訟費用の負担について民訴法第九六条、第八九条、第九二条、第九三条を、仮執行の宣言について同法第一九六条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 渡辺忠之 裁判官 鈴木重信 糟谷忠男)

〈以下省略〉

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